旅のしおり:高野山と宿坊

今回も単純往復である。

とは言うものの、難波から極楽橋まで南海電車に乗った後、ケーブルカーに乗り、さらにバスに乗り換えて高野山に到着。やや気が遠くなるようなルートだが、ちゃんと接続するダイヤになっている。弘法大師 (もしくは南海電鉄) の手のひらの上で踊らされているようなものだ。

飲食店で酒が飲めなかったこともあり、今回は大阪を素通り。新大阪駅で蓬莱の豚まんを購入して帰京した。改札外の蓬莱売店には調理済テイクアウトしかなく、新幹線改札内の蓬莱売店にはチルドしかない。二兎を追うのは難しいが、二兎を得るのは更に難しい。

先日のブログに書いた新幹線構内での酒類販売なしの一件は、よくよく聞いていると駅の放送でアナウンスしていた。駅売店・新幹線車内では酒を売っていないので「予めご了承ください」とのこと。しかし既に改札を通過しているのである。ここまで来ると事後承諾ではないか。酒を買うので改札から出してくれとはゴネず、まだアル中にはなっていないと確信できた。

1日目

東京 (新幹線) >> 新大阪
新大阪 (地下鉄御堂筋線) >> 難波
難波 (南海特急こうや) >> 極楽橋
極楽橋駅からケーブルカーで高野山駅へ。そこからバスに乗り換えて高野山。

宿泊:一乗院

1日目Tips
・大阪市内から南海電車で高野山まで往復するだけなら、「高野山・世界遺産きっぷ」がお買い得。いちいち電車やケーブルカーの切符を買ったり、バスの精算をする手間も省ける。とは言うものの、いまや高野山内の路線バスも含めてSuica対応なので、むしろ割引切符を買いに窓口へ行く手間が生じるとも言えるが。この切符は2日間有効なので、1泊しても大丈夫。拝観料も割引になる。
・南海電車は橋本から先が登山鉄道の様相。行きは進行方向右側が谷になって景色が良い。

2日目

バスとケーブルカーで極楽橋駅へ戻る。
極楽橋 (南海特急こうや) >> 難波
難波 (地下鉄御堂筋線) >> 新大阪
新大阪 (新幹線) >> 東京

2日目Tips
・おみやげ:生麩まんじゅう「笹巻あんぷ

いちじょういんのおもいで

数年前、本厄だった年は出羽三山神社に行った。そして昨年ゴタゴタが続いたときは、近所の神社に泣きを入れに行った初詣に行かなくなって久しいので、神様を訪ねるのは困った時だけになりがちである。しかし、自分に特段の問題がなくても、神様を詣でて、自身を顧みることも大事であろう。

今年は高野山へ出かけることにした。宿坊に泊まって、朝の勤行に参列する。

週末の宿坊は満室だろうと思い込んでいたが、さすがに今年は特殊である。直前の予約だったが、それなりに空室があった。

選択肢が多いのも困りものである。

宿坊なので質素な方が風情があるに決まっているが、鍵のかかるドア、そして隣室との間には厚手の壁が欲しい。そこまで言うなら、部屋にトイレもある方が良い。腰痛なので寝具はベットが良いのだが、1泊だけなら純和風の部屋を選びたい。予約サイトで評判の良い宿坊の大浴場は温泉だが、さすがにやり過ぎではないか。

あまり決め手にならない悩みばかりである。まったく土地勘がないこともあり、予約サイトの評判を頼りに、街の中央にある「一乗院」に予約を入れた。庭に面した部屋に空きがあって、その部屋の写真には椅子が写っていたのだ。質素とは離れるが、地獄の沙汰も金次第と言うではないか。

予算に応じて部屋を選べるし、ネットで予約・支払いまで済ませられるので、観光地の旅館に行く程度の気持ちで旅に出た。かなり早く宿坊に着いてしまったのだが、荷物を預かって部屋まで持っていってくれたり、雨傘を貸してくれたりと、至れり尽くせりである。

荷物を預けて参拝と撮影に行き、正規のチェックイン時間に改めて宿坊に戻った。部屋に通されると、滞在中の注意事項説明があった。

まずは「お寺ですので、早寝早起きでお願いします」とのこと。夕食は17時半、門限が20時 (COVID-19の影響がなければ21時?)。朝の勤行は6時半からだが、6時15分までに本堂へ行く必要がある。お勤めの後、7時過ぎに部屋へ戻ると朝食が準備されているらしい。

やっぱり旅館ではなかった。

もちろん食事は精進料理である。苦手な川魚が出てこないのは助かるが、天ぷらが全て山菜なのが厳しい。

お酒は頼めた。もちろんガンガン飲めるというわけではない。300mlの冷酒をもらって、一晩かけてチビチビと。

夕食後、トワイライトな高野の街へ散歩に出た。19時前だが死んだように静かである。

この街でカツサンドとギネスビールの闇酒場をやったら、宿坊に泊まっているダメオッサン相手の商売になるのではないか。焼鳥と燗酒もいいだろう。そんな罰当たりな空想をしながら、高野山の壇上伽藍に向かった。

雨上がりだったせいもあるのだろうが、壇上伽藍は静寂が支配していた。ゆっくりと境内を周り、ライトアップされている根本中堂を撮影する。御影堂の灯篭も美しく灯されていた。

心の底から来て良かったと思った一時だった。

こうやさんのおもいで

年末年始の休み中、深夜にボケーッとNHKを見ていると、高野山の番組をやっていた。正月気分だったせいか、観光ガイド的な番組だったせいか、僕にしては珍しく、お寺に行ってみたくなった。

基本的に僕は日本の神社仏閣には苦手意識が強い。宗教的な理由というよりも、ちょっとした記憶の断片の積み重ねが原因である。

子供の頃から体が硬すぎるのだが、オッサンになってからは腰痛もあり、畳の部屋は苦痛でしかない。それに土産物屋が並ぶ門前の風景というのも苦手だ。お寺そのものが通販番組みたいで微妙だったこともある。

しょうもない理由の羅列ではあるが、オッサン人生45年の蓄積である。ここまで来ると、陽の当たらない森の奥で落ち葉が積み重なって腐葉土になってしまったような、じっとりした生々しさで意識の奥底に沈殿している。

冬の間は東北方面の温泉に気を取られていた。それでも南海特急の動画を見たりと、徐々に高野山に目が向いてきた。これを機会に生々しい世俗社会から逃れ、真言密教の世界に触れて真理を悟る一端としたい。

ところで僕の関西経験というのは、京都へ飲みに行くか、神戸へ出張に行くのが主である。大阪で泊まった記憶というと、帝国ホテルのドアマン・スヌーピー部屋に泊まった時と、中国・杭州からの帰りに関西空港便しか取れなかった時くらいである。

関東から高野山へ向かうには、大阪で南海特急に乗り換えるのが便利らしい。

東海道新幹線で行けるのは新大阪まで。一方の南海は難波が始発駅なのは知っていたが、難波と天王寺は同じ場所だと思っていた。しかし、どうやら違うらしい。

この程度で新幹線から南海電車に乗り継げるのだろうか。大阪は広い。と思う。

ちょっと調べたところ、新大阪から市営地下鉄に乗れば、乗り換えなしで難波に行けることが分かった。

僕でも分かる大阪グルメと言えば、蓬莱の豚まんだ。新大阪駅にも難波駅にも売店があった。高野山では宿坊に泊まるのだが、勿論そこは精進料理である。こっそり豚まんを持ち込んだら、怒られるだろうか。修行の妨げになっては良くない。やっぱり諦めよう。

帰りの新幹線で「冷えたビール片手に温かい豚まん」という生々しい構図を思い描いて、高野山に向かった。

高野山で一晩を過ごして心が清らかになった僕は、昼食と休憩を兼ねて高野の街の喫茶店に入った。あとは生麩まんじゅうを買って帰るだけだったが、帰りの特急電車に接続するバスまで時間があったのだ。

喫茶店では隣席の坊さん連中の会話が生々しい。結局、寺院の運営は経営であり、金がかかるということなのだろう。そして僧侶業界に関わる諸々の人間関係。

心が清らかになったと思ったのは、誤解だったのだろうか。疑いが芽生えたまま下界に戻り、南海特急に乗って大阪に戻った。

新大阪駅でテイクアウトの豚まんを購入し、新幹線改札を通った。ついにビール片手に肉まんである。昨今の状況下、新幹線は基本的にガラガラなのだが、念には念を入れて、すいている確率が高いと言われる新大阪始発列車を選んで予約しておいた。

駅構内で売店や弁当屋を何軒か探したのだが、全ての店舗で「諸般の事情により」酒類は売っていないとのこと。COVID-19による緊急事態宣言である。各店舗にかかったであろう生々しい圧力は想像できる。冷めていく豚まんを目の前に、新幹線車内で修行のような時を過ごしつつ東京に戻った。

心が清らかになったと思ったのは一瞬だった。そもそも心が清らかというのは表層の一部でしかなく、むしろ有象無象の生々しさこそ、人間や社会そのものだろう。その生々しさの奥に隠された意味を見付けることが、真言に通じる道ではないか。

高野山に行ったものの、真理の智慧はおろか、世俗社会すら分かっていないままだった。