ぎりしゃのおもいで

昨年の秋、四半世紀ぶりにサントリーニ島へ行った。十年一昔と言うが、変化の激しい現代社会においては、甚だしいほど昔と言って差し支えない。時が流れて僕はオッサンになったが、島も随分と変わったのだろう。

到着初日にサントリーニ島で最大の街であるフィラを歩いてみたが、街は甚だしく混雑していた。日常生活でも可能な限り雑踏を避けるようにしているのに、ギリシャまで観光客の集団を見に来たわけではない。サントリーニ島に来たことを後悔しかけたが、まだまだ旅は始まったばかりである。

このままフィラにいては勿体ない。2日目はローカルバスに乗ってフィラを脱出しようと思った。宿泊したホテルで自家製ガイドマップをくれたので、それを元に検討を開始。どうやら島には古い街がありそうだ。チェックインの時にオススメされていたような記憶もある、メガロチョリとピルゴスという街を目指すことにした。

サントリーニ島のローカルバスは、フィラのバスターミナルを起点として、島の要所にネットワークが広がっているらしい。四半世紀の間にフィラの街は過剰なまでに開発が進んでいたが、フィラのバスターミナルは時が止まっているかのようなアナログ具合だった。

フィラの街を甚だしい混雑とするなら、アナログなバスターミナルは甚だしい混沌である。そもそもバスターミナルと言いつつ、機能的には駐車場としか思えない程度の設備しかない。たしかに案内ブースはあるのだが、路線によって乗り場が違うわけではないし、駐車中のバス車両の行先表示は出発直前まで更新されない。ほとんど放置されているだけの状態にも関わらず、大半の客は観光客であり、勝手が分からずウロウロしているだけである。

そんな混沌とした駐車場で、どうしたら乗るべきバスが分かるかと言えば、昔ながらの呼び声である。サントリーニ島で公共交通事業が始まって以来、ほとんど変わっていない乗客案内システムなのだろう。

乗車前の準備として、案内所もしくは路線図で乗るべきバスの終点を探しておく必要がある。時刻表は存在しており、早い時間はダイヤ通りに動くが、午後になって遅延が重なると参考程度にもならない。ゆえにバスターミナルで勝手が分からずウロウロしているにしても、高い集中力が必要がある。

出発直前になったら、運転手さんが行先表示を更新し、車掌さんが大声で行先の連呼を始める。その呼び声を聞き取ること、そして頻繁にターミナルを出入りするバスに轢かれないこと、どちらも重要だ。待ち時間に高い集中力を維持しておく必要がある所以である。

自分が乗るべきバスの呼び声を聞き分けたと思ったら、最後に再確認してからバスに乗り込む。実際のところ、バスの行先表示の更新が忘れられていたり、地名の発音が悪く、違うバスを探せと言われてしまったり、甚だしく不条理なシステムである。

フィラの街から出れば、もしくはバスに乗ってしまえば、サントリーニは穏やかな時間の流れる島である。山あいの古い街、ピルゴスが素晴らしかった。教会を眺めつつ、古い白壁の街並みを散歩。カフェで地元ワインの昼酒を飲んでいると、サントリーニ島に来た後悔は撤回しても良いのではないかと思った。

3日目の朝、ホテルで朝食を食べていると、目の前にある島が気になった。Google Mapで見ると、ティラシア島というらしい。海峡越しに島を観察してみると、小規模ながらもサントリーニ島のような白い街並みが広がっている。ラオスのルアンパバーンではフェリーに乗ってメコン川を渡ったが、ギリシャではエーゲ海を渡ってみるのも面白そうだ。

食事をしながら調べてみたが、甚だしく情報がない。どうやら現地ツアーに参加すると、昼食がてら立ち寄る事もあるらしい。どのツアーでも行くわけではないらしく、急に思い立って参加するのは無理そうだったし、そもそも集団行動は苦手である。

ホテルの人にティラシア島へ自力で行く方法はないか聞いたところ、サントリーニ島イアから小型の乗り合いボートが一日数便だけ出ている。かも知れないらしい。ティラシア島に自力で行きたいという問い合わせは初めてだったようで、甚だしいほど自信なさげだった。昨日のバスターミナルでサントリーニ島の公共交通案内システムに対する信頼は揺らいでおり、話半分くらいで聞いておくしかない。

サントリーニ島のイアは、世界で最も美しい夕日が見られると言う街である。到着日にホテルで地図を貰った時に、夕方のイアは甚だしく混むので近付くなと言われていた。僕が泊まったオーシャンビューの部屋から見る夕日も、イアとは大差なく美しいとのこと。せっかくオーシャンビューの部屋に泊まったのだから、そのメリットを活かすべきなのだろう。

前日のメガロチョリとピルゴスへの小旅行は素晴らしく、ホテルの自家製ガイドマップは完璧なアドバイスだった。ティラシア島の件はともかくとして、サントリーニ島に関するアドバイスは話半分で聞き流すべきではないだろう。全力で夕方を避けるべく、観光がてら午前中にイアの街まで行くことにした。

イアは朝から甚だしく混んでいた。雑踏の中ではツーリスト・インフォメーションらしきものを見付けられず、ティラシア島へ向かうボートのスケジュールも、島に行った後の移動手段も不明である。

船着場あたりで聞きこむ事も考えたが、イアの街は崖の上にあり、船着場へ行くには崖を降りなくてはならない。空振りだった時の戻りは、20分ほどの上り坂か、ボッタクリのような値段のロバに乗るしかない。どちらも甚だしいほど過酷な選択肢である。よくよく考えると、ティラシア島に行っても戻りのボートがある保証はなく、仮にイアに戻れたとしても夕方になっているだろう。午前中ですら混んでいるのだから、夕方になるにつれて街は更に混雑し、フィラのホテルまで戻るのに甚だしく苦労するのは明白だ。色々と考えているうち、面倒くさくなってティラシア島は断念する事にした。

せっかく来たのでイアの街を歩き回ってみる。街が小さいせいか、フィラよりも観光客密度が高そうだ。このまま人混みをウロウロしていると、再び後悔モードに戻ってしまう。たまたま空席のあったカフェに入り、この日の作戦を改めて練った。

いまやバイブルと化した自家製ガイドマップを読んでいると、フィラの街の近くにSkros Rockという場所があって、ここの教会がサントリーニ島にある600以上の教会の中でも絶景との事。Google Mapで見てみると、確かにホテルから2キロほどの距離に小さな教会が建っている。散歩がてら丁度いいだろう。一旦、フィラに戻ることにした。

ホテルで小休止して水分を補給し、Skros Rockへ向かった。ちょっとしたハイキング程度のつもりだったが、これが甚だしく過酷だった。

Rockと言っても、江ノ島のような陸続きの小島である。フィラの街も海沿いの崖の上にあるが、小島へ行くには崖を降りる必要がある。砂州を通って小島に渡り、そこから改めて崖を登って奥へ進む。秋とはいえ太陽が照りつけて暑く、別の意味で後悔し始めた。結局、ホテルから2キロほどの距離にも関わらず、延々と続くアップダウンで片道1時間ほど要した。

それでも過酷なアップダウンを乗り越えた先には、息を呑む絶景が広がっていた。何もかもが過剰気味で、後悔しかけてばかりのサントリーニ島だったが、後悔を乗り越えた先では十分に報われた。

後悔は先に立たないというが、あがけば何とかなるのかもしれない。人生は諦めが肝心というが、諦めないことも肝心である。諦めるか否か、見極めが重要なのだろう。

人生の次の四半世紀において、的確な見極めの付けられる老人になりたい。

さんとりーにのおもいで

昨年、久々にヨーロッパへ行った。日程に余裕があったので、短期旅行ではハードルの高い南欧のギリシャを目指す事にした。

実は初めてヨーロッパに行った時の目的地もギリシャだった。ロンドンでトランジット1泊、当時のフラッグキャリアであるオリンピック航空に乗ってアテネで入国したと記憶している。アテネの街を歩いていたら、来るべきユーロ導入についてテレビインタビューを受けたので、導入直前の1998年だったのだろう。約25年も前の話である。

その当時は高尚な青年であり、インタビューには極めて真面目に回答し、しかもギリシャ訪問の主目的は神殿遺跡の見学だった。ついで、もしくは物見遊山くらいの気持ちで、親に勧められたエーゲ海サントリーニ島にも行ったのだ。海より山が好きなタイプなので、あまり期待していなかったけれど。行ってみたところ、白壁の街とエーゲ海の組み合わせにハマり、無理やり数日延泊して島を巡った。

その後、昔のフィルムをデジタル化するまで忘れかけていたのだが、サントリーニ島滞在中、毎日のように夕焼けの撮影に行っていた。海を臨むギリシャ正教会の奥へ陽が沈むシーンである。今にして思えば、撮影を目的とした海外旅に出るきっかけになった場所なのだろう。

四半世紀の時を経て2回目のギリシャ訪問は、この教会をゴールにした。

おぼろげな記憶をたどって、サントリーニ島で約25年前に泊まったホテルを探してみた。初めて行く国の田舎に泊まるような旅行技術、あるいは度胸、もしくは根性を獲得する前であり、そもそもサントリーニ島には余り期待していなかったので、順当にサントリーニ島最大の街であるフィラに宿泊したと思う。街の中心部に近く、断崖にある白いホテルで、パティオからは海が望めた。

Google Mapを頼りに探してみるが、もちろん場所は分からない。記憶は曖昧すぎるし、それらしいホテルばかりなのである。

結局、今回はフィラの街から少し外れた宿を取った。上を見ればキリがないのがリゾート地だが、ヨーロッパの物価高と円安の影響もあり、オッサンのセンチメンタルより、予算的な縛りを優先せざるを得ない。

何の因果か、今回もロンドン経由である。朝に羽田を出る飛行機に乗り、こんな時代なのでアラスカから北極圏をかすめ、ロンドンに同日午後着。ロンドンでは英国入国せずに乗り継ぎ、深夜にアテネでギリシャ入国して1泊。最後に国内線でアテネからサントリーニ島へ向かった。かなり本格的な長旅である。

空港でピックアップしてもらい、フィラのホテルへ向かう。着いてみると、記憶にある場所からは相当に遠かった。フィラの中心地まで徒歩20分ほど、約25年前には街外れだったと思われるような場所だ。それでも前回とは違ってオーシャンビューの部屋である。

ホテルに荷物を置き、夕暮れ時になる前に、ゴールである教会を探しに行く。フィラの中心部あたりだと思って、海側から街を見ながら探すが、どうにも見付けられない。記憶が曖昧なのでギブアップしかけたが、Google Mapのおかげで見つけることが出来た。フィラの雑踏から外れた、静かな坂の途中が撮影ポイントである。

教会を見下ろす場所にバーがあって、ゴール到着を祝してビールで乾杯。たぶん店名も経営者も変わっていると思うが、約25年前にも同じ場所で撮影前後にビールを飲んでいた。何度か通ったせいか、しまいにはヒマなスタッフが撮影場所までビールをデリバリーしてくれていた。当時の僕は高尚な青年だったが、アル中予備軍でもあったようだ。

夕方、改めて教会を望む坂に戻った。約25年前は7月の訪問だったと思うのだが、今回は10月だったので太陽の沈む位置が異なっていた。写真的には前回の方が収まり良い。

この日は海上に雲がかかり、かつ手前の海にクルーズ船が多すぎて撮影に向かなかった。結果的に2日連続で通ってしまったが、3回も行かずに済んだだけマシだろう。おかげでサンセットを見ながら飲酒という、エーゲ海リゾートらしい過ごし方で、ギリシャ最後の夜を楽しめた。オーシャンビューの部屋をとった価値があったと言える。

空港でピックアップしてくれたドライバーに「25年ぶりに来た」と言ったところ、にべもなく「初めて来たのと同じだな」と言われた。ついつい「お前が鼻水たらしていた頃だろ」と言い返そうと思ったが、たしかに僕自身の記憶も非常に曖昧だったし、それが客観的な現実なのだろう。それだけ年を取ったのだ。

たしかに四半世紀は長い。高尚な青年は、世間のことが良く分かっていないオッサンになってしまった。ブヨブヨと腹は出てきたし、高尚さを通勤電車の網棚に置き忘れて久しい。想像通りの人生だったのは、立派な酒飲みになった事だけだ。これすら進化とは捉えがたく、全体的には著しい退化である。

それでも、このブログの根幹に立ち帰れた気がする。まがりなりにも同じ趣味を25年も続けられているのである。所詮は自己満足の世界だが、それはそれで素晴らしい。と思う。

オッサンにも自己肯定感が必要である。

参考写真

約25年前に撮影したサントリーニ島。中古で買ったCanon New F1というオートフォーカス非対応のカメラで、富士のVELVIAというポジフイルムを使用していた。この時代のデジカメは微妙だが、さすがにオートフォーカスはあった。やはり昔から偏屈だったのだろう。

しんねん

「明けない夜はない」とはシェイクスピアの “the night is long that never finds the day” の意訳らしいが、きっと彼はコップに水が半分もあると思えるタイプだったのだろう。

「暮れない昼はない」と思うほど僕は悲観的ではないが、それでもコップに水が半分しかないと思うタイプである。僕に適当なのは、旧約聖書の「日は昇り、日は沈み 喘ぎ戻り、また昇る」あたりだろうか。ただし僕の場合、聖書的な達観というよりも、「人生山あり谷あり」という直訳な感覚に近いのだが。

昨年は11月末にサンフランシスコへ行った。晩秋の北カリフォルニアにしては晴天が続き、ゴールデンゲートなどの絶景を楽しむことが出来た。そしてブラックフライデーとアウトレットで買い物三昧である。

出発当日は夕方まで会社をこなし、羽田からの深夜便で出国して、サンフランシスコに直行した。帰国日も丸一日フルに遊んでから深夜便に乗り、早朝の羽田に到着後、自宅に戻って在宅勤務という過密日程だった。圧倒的な満足感と少々の疲労が残る数日間を、極めてエンジョイできたと言える。

人生とは山あり谷ありである。昇った日は沈み、また昇る前には喘がなければならない。コップに水が半分しかないと思うタイプとしては、極めてエンジョイした後の揺り戻しが怖い。

実際のところ、12月は極めて不調だった。

帰国して数日たった12月1日には既に寒気がしていたし、その翌日には喉が痛くなっていた。そして夜から軽く発熱。遊び過ぎて病気になる、小学生なら怒られるパターンである。次の日は日曜だったので、怒られる前に葛根湯を飲んで丸1日寝ていれば治るだろうと簡単に考えていたが、いやはや、谷を転がり落ちるのは速い。

翌日は寝て過ごしていたのだが、徐々に熱が上がり始めた。39.5度まで上がったところで耐えられなくなって、解熱剤を服薬することにした。自宅にはCOVID-19検査キットがあり、2回やったものの陰性。全身の筋肉痛のようなインフルエンザ症状はないが、月曜に発熱外来のアポを入れることに成功。

やはりインフルエンザ検査もシロだった。つまり単なる風邪らしい。タミフルのような特効薬がある病気の方が良かったのではないかと思いつつ、対処療法の薬だけを貰って帰宅。

転がり落ちた谷は思ったよりも深かった。

オッサンになると、普通の風邪くらいでは数日も高熱を出すような体力がないと思っていたのだが、僕の免疫は3日間も大活躍していたらしい。連日39度まで熱が上がり、薬で38度まで落とすような生活をしていた。僕の場合、体力的には39度あたりが最も厳しいが、不条理な悪夢を見るのが38度あたりである。薬を飲んでも飲まなくても最悪の日々だった。

日は再び昇る前に、谷底で喘がなければならないのである。

日にち薬とは良く言ったもので、4日目には熱が下がった。谷には底があり、明けない夜はないのだろう。

しかし、そこから先も極めて長かった。咳が止まらない日々が続いたのだ。咳は体力を消耗し、睡眠を阻害するし、気分的に滅入る。谷底に溜まる澱のような日々。

それも日にち薬である。数週間すると多少なりとも改善した。夜明けは近いのだろうか。

甘い期待のもと社会生活に復帰したところ、買ったばかりのiPhoneのモデムが壊れ、クリスマス当日に修理のため半日つぶしてDocomoとApple Storeに行く羽目に陥った。更には、12月に会社を辞めたスタッフの補充がなく、なりゆきで5年前にやっていた仕事に手を出したところ炎上するなど、未だに早朝の薄明に近い状況でしかない。

数日ほどサンフランシスコを満喫した程度で、ここまでの谷に陥る羽目になるのだろうか。谷底で喘ぐのが人生の宿命とは言うものの、いくらなんでも喘ぎすぎだろう。「暮れない昼はない」に宗旨変えする頃合いかもしれない。

新年を迎え、昨年を振り返ったところ、春に結婚したことに思い至った。10月上旬にギリシャへ行っていたのが新婚旅行というやつである。つまりサンフランシスコは長い下り坂の途中にある丘であり、そもそも10月中旬くらいには既に大いなる山から転がり落ち始めていたのだろう。これなら揺り戻しの振り幅が大きく、谷底は極めて深い筈である。まだまだ喘がないといけないのかもしれない。

新年だが先行きは暗い。