ひろしまのおもいで

6月に所用で広島県へ行くことになった。梅雨の時期だったのでイマイチ心は踊らないが、所用は所用である。天候にあわせて日程変更がきくようなプランを考えた。

福山市に「鞆の浦」という古い港町があり、ちょっと前から気になっていた。昔の灯台があるらしい。鞆の浦に泊まって船で尾道へ向かい、そこから海沿いの呉線を走る観光列車で広島へ向かうことにした。週末の土曜~日曜だけの短い予定ながら、瀬戸内を満喫できる筈である。天気さえよければ。

例によって毎日のように週間天気予報を見ていると、週末の天候は微妙ながらも、金曜の天気が良いらしい。元々の予定を強引に変更して、金曜の昼に厳島神社へ行くところからスタートすることにした。

20年ほど前に尾道のバーへ行ったことを除くと、広島県訪問は約40年ぶりだったと思う。小学生の頃に平和記念資料館と厳島神社を見て、ブルートレインに乗って東京へ戻った記憶があるのだ。そんな記憶を掘り起こしても、広島電鉄の路面電車で宮島口から広島市内まで異様に時間がかかったのも含め、どうにもパッとした思い出はない。

さて今回の旅行に際して調べたところ、この金曜日の広島港は14時頃が満潮との事だった。ちょうど訪問時間帯である。むしろ晴れで満潮だったので、無理に厳島神社へ行くことにしたという方が正しいのだが。

オッサンになって満を持して行ってみると、島は観光客で溢れかえっており、対岸は市街地で、しかも鳥居の奥にはビルが映り込んでしまう。それでも海の中に大きな鳥居がある風景は絶景だし、建物はPhotoshopで消してしまえばいい。

約40年前の初回訪問時は、潮の状態など調べなかったと思われる。パッとした思い出がないところからすると、満潮ではなかったのだろう。一方、干潮だと大鳥居のあたりまで歩いて行けるらしいので、それであれば別の記憶が残ったと思う。どちらでもないところからすると、極めて中途半端な時間に行ってしまったのではないだろうか。結果として、平和記念資料館で恐怖に慄いた事と、イマイチ迫力に欠ける厳島神社、延々と乗り続ける広電というのが広島の思い出になってしまったらしい。

そんな事を考えながら、厳島神社の参詣と撮影を終え、広島から新幹線に乗って福山へ向かう。そしてバスで鞆の浦へ。

夕方には曇っていたのだが、日没直前に晴れ、日没直後には空全体がピンクに染まった。平日だったせいもあって、ほぼ無人の灯台を満喫できた。

再びバスで福山市内に戻り、古いバーへ行った。20年ほど前に尾道で行ったのが「暁」というバーなのだが、当時から福山にも店があった。尾道は閉店したと聞いていたのだが、改めて調べたところ、福山の店は営業していた。なんと80才で現役のバーテンダーだった。

非常に満足のいく一日になった。

翌日からは天気予報の通りに曇りだった。写真は満足いくものが金曜日に撮れており、おおらかな気持ちで予定通りに旅を続けた。尾道で寿司を食べながら昼酒を飲み、バーのついた観光列車で呆れられるほどカクテルを飲み、広島市内でハイボール片手にお好み焼きを食べた。小学生には真似の出来ない領域である。重ねた歳月は無駄だったかもしれないが、オッサンになって良かった。

いまや広島駅を通るブルートレインはないが、それでも40年かけて広島県を満喫した旅ができた。

たなだのおもいで

ベトナム旅の目的地は、少数民族である赤ザオ族の村だった。山岳地帯へ棚田を見に行ったのだ。

ハノイ到着の翌朝、ホテルの送迎車でピックアップしてもらい、ラオカイ省に向けて北上する。途中までは高速道路だが、残りはクネクネと山道を登る。約5時間の行程で、昼前にはホテルに到着した。棚田トレッキングと宿泊がセットになったプランを予約しておいたので、この日の午後からトレッキングである。

ちょっと休憩してレストランで軽い昼食、それからガイド兄ちゃんとの顔合わせとトレッキング予定のブリーフィング。この日はホテル前の谷を2時間ほど歩くとのこと。

ガイド兄ちゃんとホテルを出ると、敷地外には掘っ立て小屋のようなものが並んでいて、赤ザオ族のオバチャン達がたむろしている。噂に聞いていた物売り集団である。

観光地の物販は通り過ぎさえすれば回避できると思っていたのだが、そうでもないらしい。オバチャンたちは商品を持ったまま、我々に付いてくるのである。結果、ゾロゾロと大集団で歩くことになった。

しばらく車道を歩いてトレイルに着くと、雄大な谷に棚田が広がっていた。しかも快晴で、新緑が映える。なんとも美しい。

目の前に雄大な谷が広がっているという事は、つまり高低差が大きい。坂を下った後は、坂を上る必要がある。目の前の光景が快晴という事は、つまり太陽が照り付けている。南国ベトナムの力強い太陽である。気温がグングン上がる。

暑いし疲れる。

そこに物売りオバチャン集団が付いて来ている。さすがに歩行中に商談は行われないが、それでも妙にフレンドリーに話しかけられる。

まったく疲れる。

しかもオバチャン集団は地元民なので、棚田を歩き慣れており、上り坂でも歩くのが早い。もちろんガイド兄ちゃんも早い。結果として集団全体の歩みが早くなり、ナヨナヨした都会人オッサンは同じペースで歩くだけで大変である。

まったくもって疲れる。

ヘトヘトになってトレッキングを終えると、物販タイムである。赤ザオ族デザインの手作りポーチだとか、布製のアクセサリーだとか、オッサンには縁のないものばかりである。しかも、デザインは微妙に異なるが、全員が似たような物しか持っていない。たしかに2時間を共に過ごしたせいもあって無為に断ることはできないが、それとて限度があるだろう。僕は炎天下で歩き疲れており、値段交渉する余裕などなく、オバチャン1人から定価で1個だけ買って、あとの数人からは退散した。

かなり疲れる。

ガイド兄ちゃんがいなければ、このオバチャン集団をガイド代わりにしてチップを払う手もあったのだろうが、そういう仕組みにはなっていない。物販の品揃えとしても、地元産の蜂蜜とか、目先の変わった物があれば良かったのだが。疲労感が強まるだけの、どうにも効率の悪い仕組みだった。

2日目も棚田トレッキングである。この日も快晴だが、朝は霧が出ていた。

8時半にホテルでピックアップしてもらい、スタート地点まで車で移動。9時半くらいから歩きはじめる。歩くにつれて霧が晴れてきた。ただし湿度が高いせいか、遠景の山が霞んでしまっている。せっかく撮影日和なのに、少々もったいない。それでも絶景の中、田植えを見ることができた。棚田は機械化が難しいらしく、ほとんどが手作業らしい。歩くだけでも大変なのに、手作業での田植えには頭が下がる。

この日のコースは上りが少なく、多少は楽である。しかしカンカン照りなのは相変わらずで、撮影には晴れて良いが、とにかく暑い。最高気温は30度くらいだが、湿度は80%オーバー。体感気温はどの程度だったのだろうか。

3日目はラオカイ省での最終日だったが、午前中に追加でトレッキング予定を入れておいた。ホテルのプランには2泊で2回分のトレッキングが付いているが、天気の読みにくい短期旅行である。どの程度まで自分で歩き回れるか分からなかったので、オプショナルツアーを頼んでおいたのだ。

朝霧はなく、湿度が低いせいか、遠くまでクリアに見通せる。この日は絶好の撮影日和であるが、気温は昨日よりも更に暑い。

慣れない高温多湿のなかを2日連続で歩いたせいか、疲れが抜けていなかった。しかも、この日のルートは最も距離が長く、高低差もあるらしい。棚田の撮影だけなら、初日のルートを赤ザオ族オバチャンたちと一緒に歩けば十分だったのではないだろうか。後悔は先に立たないのだが。

それでも棚田の新緑は何度見ても美しく、この日のルートでも田植えを見ることができた。

しかし「好事魔多し」と言うのだろうが、一箇所だけ細い畔道を通った時、丁度そこでフラフラしてしまい、下段の田んぼに落ちてしまった。高低差が70cmほどあり、片足が田んぼにハマる。それでも片足は畔の斜面に残れたし、カメラも無事だった。畦道に上がろうとして踏ん張ってみるが、力を入れれば入れるほど沈んでいくようだ。なんとか倒れこまずに済んでいたが、僕の長い足にも限度がある。ややパニック気味に叫ぶと、ガイド兄ちゃんが救出に来てくれた。

この日はホテルからハノイ空港に送ってもらい、そのまま帰国の予定である。靴とズボンは泥だらけだが、もう着替えの残りはない。かなり気分が落ち込み、トボトボ歩いてホテルに戻った。

ホテルの玄関脇には靴洗い用の流しがあり、ブラシまで準備されていた。ドジは僕だけではないという事なのだろう。幸い出発まで3時間ほどあり、靴を洗ってからプールサイドへ。プールのシャワーで洗濯物のズボンに着替え、クタクタの洋服ながら、泥とは無縁のオッサンに戻れた。

ラオカイ省での3日間、棚田の田植えを堪能できた。これで一生分の棚田を見たと言って良いだろう。

旅行計画の根幹に撮影があるせいか、天気が悪いリスクを考慮して予定を詰め込みがちである。しかも準備を早めにするので、季節感を考慮していないケースが多い。今回の予約は3月に入れたので暑いという感覚は忘れていたし、そもそも山岳地帯の田植え時期と聞いていたので涼しいと思い込んでいたのだが、どうやら勘違いだったらしい。

天気が悪いことを考慮するのと同じくらい、天気が良い可能性も考慮すべきなのかもしれない。コップに水が「半分しかない」と考えがちな僕ではあるが、水が「半分もある」ことも考えたほうが良いのだ。

べとなむのおもいで

月末・月初は祝日に関わらず仕事なのだが、それでも今年のGWは5連休になりそうだった。以前は5日あればヨーロッパやアメリカに行けると思っていたのだが、COVID-19以降の航空券相場は高めに推移しており、抑制が必要である。新時代のニューノーマルにあわせた旅の計画を立ててみよう。

抑制がテーマとなれば、近場を探すしかない。アジアの地図を眺めていると、フィリピンには行ったことがないと気付いた。僕にとってのフィリピンとは、ヨーロッパ路線におけるシベリア、もしくは北米路線におけるアラスカ沖ベーリング海と同じポジションである。すなわち長距離線の飛行機内で、飽きという苦痛に耐えながら時間つぶしをする場所だ。東南アジア路線で飽きを感じ始める場所が目的地であれば、そこそこ近い旅行先ということになろう。抑制されたニューノーマルな目的地と言って差し支えない筈である。

フィリピンについて改めて調べたところ、エルニドの島々が美しいらしい。エルニドに行くにはマニラ空港での悪名高い乗り継ぎが不可避だが、フィリピン国内線はフライトが多く、時間に余裕を持った旅程を組めば何とかなりそうである。帰路は乗り継ぎ待ちを兼ねてマニラで時間を取ることにした。荷物や移動、安全対策を考えると、半日ほど車をチャーターして、国内線の到着ターミナルでピックアップしてもらい、マニラ観光の後、最終的に国際線の出発ターミナルまで送ってもらうのが良さそうだ。

しかし、まだ一度も行ったことのないマニラだが、これといって魅力的な場所は見付けられなかった。たしかにマニラ旧市街には興味があったのだが、心惹かれるまでには至らず。結局、車の半日チャーター料金に見合うようなマニラ計画は作れなかった。

更に調べたところ、エルニドで現地ボートツアーに参加すると、島での乗下船は泳がないといけないらしい。多少なら泳げるし、荷物は防水バックを買えば良いのだが、普段の生活でも転ぶとか漏らすとかが得意な僕である。ボートツアーに持ち込むデジカメの取り扱いに不安が生じた。というか、不安しかなかった。

既に航空券は予約済だったのだが、ここまで考えると急激に熱意が下がってしまった。このテンションの低さでフィリピンに行っても、ロクな事にならないだろう。

どうしたものかとインターネットを見ていたところ、ベトナム少数民族の村にあるホテルが目に留まった。いわゆる高原リゾートである。山岳地帯の田舎で棚田を眺めながらトレッキングが出来るらしい。しかも5月上旬は田植えの時期で、秋の収穫期と並ぶベストシーズンとのこと。かなり良さそうではないか。往復ともJAL便の非常口席が空いていたこともあり、ほぼ即決で予定変更した。

かれこれ3年半ぶりのベトナムである。羽田からの深夜便で、早朝のホーチミンシティに到着した。朦朧としたまま入国審査を通り抜け、速攻でベトナム入国。

ホーチミンシティからベトナム航空国内線でハノイまで北上するのだが、祝日だったせいか、空港はガラガラだった。ダメもとで1本早いフライトに変えてもらえないか聞いたところ、すんなりOKしてくれた。予想通り飛行機もガラガラ、しかも機体はワイドボディの新鋭機Airbus A350である。ゆっくりと睡眠の続きを取れた。

そのまま予定より1時間ほど早くハノイに到着した。乗客が少なければ、荷物が出てくるのも早い。気がする。ホーチミンシティ離陸前にホテルへメールを出して、送迎車を早めてもらうよう依頼しておいたが、ちゃんと来てくれていた。

ここから先は半ば諦めていたのだが、ホテルに到着後、チェックイン手続きをして10分ほどロビーで待ったら、早くも客室に入れてくれた。こういう事が意外とあるので、料金が少し高い程度ならホテルの送迎サービスを利用し、ホテルが僕の到着時間を分かるようにしている。

部屋でシャワーを浴びて、まずはフォーを食べに行った。行列が出来る有名店に行ったのだが、11時頃に到着できたおかげで、待ち時間が少なくて済んだ。ホーチミンシティでフライトを早めたのが効いている。あとは例によって旧市街の市場を見に行き、夕方前にはブンチャーを食べに行って昼寝。

夕食は予約しておいたレストランに行った。オシャレな繊細系ベトナム料理の店だったが、フォーとブンチャーを食べ過ぎたせいか、その店では少量しか食べられなかった。これが唯一の失策で、それ以外は全てが怖くなるくらいスムーズな一日だった。こういう日もあるのだ。実際、旅行最終日には痛い目にあったのだが、それは先の話である。

ニューノーマルにあわせて旅行先を変えようと思い、フィリピンの美しい島を見に海へ行くつもりだったが、ベトナムの美しい棚田を見に高原を目指す事になった。マニラで車をチャーターして興味のない観光地を廻るくらいなら、スムーズにハノイで歩き廻る方が良かった。ハノイは3度目なので新鮮味はないが、ベトナム料理は好きだし、いつ見ても市場は楽しい。結局、旅に妙な目的を付随させようとすると、それに振り回されてしまうということなのだろう。行きたい所に行くのが自然であり、スムーズな結果になる。

所詮、僕は何とか世代ではなく、単なる昭和生まれのオッサンである。ニューノーマルを探し求めるのはやめ、慣れ親しんだノーマルに回帰しよう。それがどんなに古臭かろうと。