写真を整理していたら、昔、ロサン (そのころ流通させようとしたロサンゼルスの短縮形。ロサンゼルス住民はロサン人。まちがっても魯山人ではない) の日本語新聞に書いた原稿のスキャンコピーがでてきた。
若い。若さを消す無駄な努力というか。なんというか。
友人に指摘されるまでもなく、強引な屁理屈といい、更に強引なオチの付け方といい、同一人物である。
・・・というか、進歩がない。
昔のものは恥ずかしい。
羞恥心を持つ自分自身。思えば大人になったものだ。
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ダンディズム—ある美学
羅府新報に短文を書いてみないかと問われたとき、何も考えずに了承してしまった。
数日後、僕は後悔を始めた。なにも、自分の偏屈ぶりを世に知らしめるのが怖くなったわけではない。編集の人から、若者の考えや目標などについて書いて欲しいと連絡があったのだ。これは無理だと思った。
僕を見た人は、しばしば十年分くらい勘違いするが、僕は間違いなく若者である。しかし、僕がもっと若く、選挙権すらなかった頃から、僕は若者らしくなかった。見たくれだけでなく、モノゴトの考え方も、そして行動も、若者らしくなかった。
むしろ、世間で言うところの「若者らしさ」から、意図的に距離を置いていた感がある。
理由を問われれば、僕にとって、全ては「ダンディズム」に集約される。ダンディとは、一般的に信じられているような、スーツを着こなす技術でも、女性に気の利いたセリフを投げられる才能でもない。
ダンディズムとは、江戸言葉で言う、「洒落」のことだ。「粋」と言い換えても良いかもしれない。「キザ」、「偏屈」、「見栄っ張り」と言った言葉と、本質的には異なるが、イメージ的には近い。ロジェ・ケンプの言葉(ロジェ・ケンプ著「ダンディ」講談社現代新書)を借りてしまえば、ダンディズムとは、画一と平均に反抗し、ものに動ぜず、品位を重んじ、何よりも単純さと無意味さを好むことである。つまり、生き方の哲学であり、美学と言っていい。
僕にとって、ダンディズムは、思考だけでなく、日常の些細な行動の規範となる。
例えば、僕は他の若者達のようにビールをカブ飲みすることもないし、集団でカラオケへも行かない。こうした行動の元になっている価値判断には、ダンディズムが大きな影響を与えている。ビールを飲む選択肢もあり、カラオケに行く選択肢もあるのだが、しかし、僕は他人とは違う酒を飲みたいし、安易な方法で時間を潰したくないのだ。
実際には、ビールを飲まずにスコッチを飲んでいるので、酒を飲んでいることには変わりないし、カラオケに行かなくても、酒場で無駄話をして、時間を浪費している。つまり、行動の本質としては大した違いはないのだが、それでも、これとてダンディな行為なのである。些細なことも、無意味なことも、裏打ちされた美学があれば、全てダンディである。ダンディとは、技術や能力の発露ではなく、個人の根幹にある美学の発露なのだから。
達観したわけではないし、酸いも甘いも知らないままだが、ダンディズムという美学に基づいた僕の思考や行動は、結果として、世間並みの若者らしくない。個人的には貫禄というか、確立された自分のスタイルがあるのだと思いたいが、世間的にはオッサン臭いだけだろう。
突き詰めて考えると、若者らしさ云々というよりも、同世代とは別の事をしようとしているだけなのだ。そうだとすると、若いうちはオッサン臭くてモテず、年をとったら年齢相応の貫禄も何もなく、つまりは一生モテずに終わることになる。
人間、変な美学などは持たない方が良いかも知れない。