2010/08/06 あゆみがのろい

写真を整理していたら、昔、ロサン (そのころ流通させようとしたロサンゼルスの短縮形。ロサンゼルス住民はロサン人。まちがっても魯山人ではない) の日本語新聞に書いた原稿のスキャンコピーがでてきた。

若い。若さを消す無駄な努力というか。なんというか。

友人に指摘されるまでもなく、強引な屁理屈といい、更に強引なオチの付け方といい、同一人物である。

・・・というか、進歩がない。

昔のものは恥ずかしい。

羞恥心を持つ自分自身。思えば大人になったものだ。

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ダンディズム—ある美学

羅府新報に短文を書いてみないかと問われたとき、何も考えずに了承してしまった。

数日後、僕は後悔を始めた。なにも、自分の偏屈ぶりを世に知らしめるのが怖くなったわけではない。編集の人から、若者の考えや目標などについて書いて欲しいと連絡があったのだ。これは無理だと思った。

僕を見た人は、しばしば十年分くらい勘違いするが、僕は間違いなく若者である。しかし、僕がもっと若く、選挙権すらなかった頃から、僕は若者らしくなかった。見たくれだけでなく、モノゴトの考え方も、そして行動も、若者らしくなかった。

むしろ、世間で言うところの「若者らしさ」から、意図的に距離を置いていた感がある。

理由を問われれば、僕にとって、全ては「ダンディズム」に集約される。ダンディとは、一般的に信じられているような、スーツを着こなす技術でも、女性に気の利いたセリフを投げられる才能でもない。

ダンディズムとは、江戸言葉で言う、「洒落」のことだ。「粋」と言い換えても良いかもしれない。「キザ」、「偏屈」、「見栄っ張り」と言った言葉と、本質的には異なるが、イメージ的には近い。ロジェ・ケンプの言葉(ロジェ・ケンプ著「ダンディ」講談社現代新書)を借りてしまえば、ダンディズムとは、画一と平均に反抗し、ものに動ぜず、品位を重んじ、何よりも単純さと無意味さを好むことである。つまり、生き方の哲学であり、美学と言っていい。

僕にとって、ダンディズムは、思考だけでなく、日常の些細な行動の規範となる。

例えば、僕は他の若者達のようにビールをカブ飲みすることもないし、集団でカラオケへも行かない。こうした行動の元になっている価値判断には、ダンディズムが大きな影響を与えている。ビールを飲む選択肢もあり、カラオケに行く選択肢もあるのだが、しかし、僕は他人とは違う酒を飲みたいし、安易な方法で時間を潰したくないのだ。

実際には、ビールを飲まずにスコッチを飲んでいるので、酒を飲んでいることには変わりないし、カラオケに行かなくても、酒場で無駄話をして、時間を浪費している。つまり、行動の本質としては大した違いはないのだが、それでも、これとてダンディな行為なのである。些細なことも、無意味なことも、裏打ちされた美学があれば、全てダンディである。ダンディとは、技術や能力の発露ではなく、個人の根幹にある美学の発露なのだから。

達観したわけではないし、酸いも甘いも知らないままだが、ダンディズムという美学に基づいた僕の思考や行動は、結果として、世間並みの若者らしくない。個人的には貫禄というか、確立された自分のスタイルがあるのだと思いたいが、世間的にはオッサン臭いだけだろう。

突き詰めて考えると、若者らしさ云々というよりも、同世代とは別の事をしようとしているだけなのだ。そうだとすると、若いうちはオッサン臭くてモテず、年をとったら年齢相応の貫禄も何もなく、つまりは一生モテずに終わることになる。
人間、変な美学などは持たない方が良いかも知れない。

2010/01/31 にんげん

ヒトには限界というモノがある。

昼にラーメンと餃子とチャーハンを食べると、どんなに旨い店に行っても夜は大して食べられない。

夜、食事の時にワインを1本くらい飲むと、バーに行ってもウイスキーは少ししか飲めない。

意図的にチャレンジしているわけではないが、週の間に積もったモノを、週末の飲食で解決しようとすると、すぐ限界に達してしまう。

寂しい。虚しい。やり遂げられなかった感がある。自由な筈の週末さえも、思い通りにはならない。

人間、そんなモンなのか。つねに、なにかしら、限界のなかで生きて行かなくてはならない。

なぜ神は暴飲暴食の限界を作ったのか。それはデブにならせないためである。食糧問題解決のためでもある。要は種の保存である。食いたいだけ食わせていたら、土地は枯れ、食料は枯渇し、デブが横行し、人類は滅びる。

なぜ神は「週末を除く」という特例をつくらないのか。それは特例を認めると、特例だらけになるからである。要は規則に則った社会をつくるためであり、究極的には種の保存である。規則を無視すると、争いが始まり、社会は荒廃し、人類は滅びる。

故に、人間は本質的に自由ではない。週末だけの暴飲暴食もできないくらい自由ではない。限界のなかで生きていかなければならないのだ。

胃もたれで起きた朝は、とりあえず胃薬を飲む。胃薬を飲むか飲まないか程度の自由は、僕にもある。いまのところ。

2009/08/08 ばっし

15年くらい前に親知らずが痛くなって歯医者に行ったら、下の親知らずが斜めに生えているので、隣の歯を圧迫するから痛くなると言われた。ただ、しばらくは様子を見た方がいいって。

ロサンにいたころ、試験の時期になると親知らずが痛んだ。ストレスがたまると、親知らずが伸びようとするんだと固く信じていた。隣の歯を圧迫するのだ。でも抜くのは大変。バーでピスタチオを食べるがごとく、アスピリンを飲んだ (アメリカ人そのもの)。黄緑色の鼻水が出たのも、この頃である。

サラリーマンになると試験はないので、親知らず問題はなくなった。

・・・というか、忘れていた。先週までは。

年始以来のストレスと、大嫌いな夏のせいで久々に親知らずが痛くなった。隣の歯を圧迫しているのだ。いまなら保険も気にしないで歯医者に行ける。

で、歯医者に行った。近所の歯医者である。腕のいいオッチャンらしい。

そうしたら、オッチャンに「歯茎が痛いのか、歯が痛いのか分かる?」と聞かれた。

その違いは良く分からない。どっちだっていいじゃないか。どうせ斜めに生えている歯が悪いのだから。

するとオッチャンは上の親知らずが下の歯茎を圧迫して炎症を起こしているに違いないというのである。「レントゲンを見ると、この下の歯は伸びる力ないね」だって。

は? 歯だけに。

「上の歯は真っ直ぐ生えてるからね。出っ張っているところもあるし。これが伸びようとしているのか、ストレスで無意識に歯を食いしばっているのかどっちかじゃないかなー」

不景気の時代に歯を食いしばって生きる。文字通りだ。

「こんなのすぐ抜けるからね。しばらく抗生物質で様子を見て、気になるんなら抜いちゃえば。ぼくの見立てが悪くて、もし下の歯が原因だったとしても、上の親知らずは抜いても大丈夫だから。でも本当に下だったら、骨の中だから、うちじゃ無理だよ」

15年間信じていたものが崩れた気がした。

水曜日の夜の出来事である。

そして、さっき抜いてきた。アッサリしたもんである。順番待ちで30分、麻酔に5分、抜歯に3分、止血に20分、支払に2分。1時間後には抜いた歯を持たされて外に出ていた。

15年間の誤解とは1時間余りで決別した。少し大人になった気がした。