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写真: モダンでビジーでトレンディな地下鉄 (イメージ)

ハバナの帰り、NYでドクターしんコロに会った

1960年代で時が止まってしまったかのようなハバナに比べ、なんとモダンでビジーでトレンディな都市であろう。夜なのに街が明るいし、ウジャウジャと人が歩き回っているし、地下鉄が走っている。

モダンでビジーでトレンディな地下鉄に乗っていると、オッサンが座るスペースを作ってくれた。ハバナなら間違いなく小銭を要求されるのでヒルんでいたところ、そういう意思はないようだ。隣にレディーがいたのでモダン社会のルールに従ってレディファーストしようと思ったが、どうもレディはオッサンにヒルんでいたようである。ビジー社会のルールに従って僕が座った。

そんなオッサン達を乗せた各駅停車の地下鉄は、途中から急行になっていた。これは地下鉄業界の新潮流なのか。なかなかトレンディについていけないのがオッサンの定めである。

そのモダンでビジーでトレンディな街で、ドクターしんコロと地下鉄に乗ってステーキハウスに行った。Twitterでも僕の人生の疑問に答えてもらっているが、今回はマンツーマンなので、ラジオの子供電話相談室みたいなものである。しかも奢ってもらった。

本日の子供オッサン相談はダイエット問題である。色々と試しているが、減らないのである。

今までの人生におけるダイエットは、精密に構築された理論に基づいていた。

条件1: 過剰に食べているから太る。
条件2: 労働が大して機械化されていない江戸時代でも1日2食であった。
結論: 食べなければ太らない。IT社会でデスクワークの現代人は1日1食で十分である。

そんな1日1食生活を何年か送っていたが、まるで痩せる気配はない。実際のところ、1日1食だと間食が多い。会社の給湯室にある菓子スナック類をハイエナのように漁っている。しかも空腹のままバーに行き、ウイスキーのストレートを飲んでいるのである。じつに体に悪い。

そこで、やむなく今年前半から1日2食生活に移行したが、それでも痩せる気配はない。実際のところ、半年くらい前に転居したために、毎日1時間くらい歩いているのである。その分は少々痩せたが、しかし満足できるレベルには達していない。

どうすればいいの。教えてドクターしんコロ。

数杯のワインの後、低下した理解力で認識した限りでは、人工的に作られた飢餓状態のため、僕の体はエコカー並みに燃費が良くなっているとのことである。低燃費で何年も過ごしていたのである。生物的には進化していたと言ってもいいのだが、ダイエットのためには退化した方がいいとのことである。現代社会のパラドックスだ。

ダラダラと燃料を摂取し、一昔前のクライスラーのように浪費すべし。ということなんだと思う。つまり、朝も昼も晩も適量の食事をとり、飢餓状態を作らずに生活をしつつ、適度な運動をする。そういう作戦のようである。

しかし、肉を奢ってくれた人のアドバイスとはいえ、5年以上も追い求めてきた理論を手放すのか。「食べて痩せる」というのは「食べないから痩せる」からのパラダイムシフトである。信じていいのだろうか。

自分自身に過剰かつ根拠のない自信を抱きがちな性格をしており、帰国後、念のために知り合いの薬剤師にも確認してみた。人体関係のプロである。「朝食を食べろと前から言ってる」とのこと。かなり前から僕の理論は崩壊していたようである。

しかし朝食は難しい。朝食は朝に食べるものであるからして、朝に食事する時間を取る必要がある。唯一の捻出方法は早起きである。端からハードルが高い。

事業計画を決めきれない社長のように悶々と日々を過ごしていると、ある晩、唐突に翌朝から朝食を食べようと心に決めた。神が降りてきたのかもしれない。実に午前2時過ぎのことであった。

翌朝、というか、その後、スヤスヤと眠りこけていると、唐突に目覚ましがなった。いつもより30分ほど早い時間である。アホみたいなアクシデントである。神を呪うような言葉を吐き、再びベットに戻る。そして二度寝。

気づくと家を出るべき時間を過ぎており、タクシーで会社に行った。車中、寝ぼけた頭で自問自答していると、朝食を食べようと思い立ったことを思い出した。アクシデントではなかったのだ。完全にアホだ。

その夜は念入りに目覚ましをかけ、ちゃんと起きて朝食を食べるべしと自分自身に言い聞かせ、適度な時間に就寝した。
翌朝は爽快に目覚めた。やればできるオッサンである。

目覚めたところ、そもそも朝食に何を食べるべきかという疑問に直面した。爽快に目覚めたと言っても、実態としては夜型人間であり、思考は停止しているに等しい。

なんとなく理解したところでは、朝食を食べるには朝食を用意しなくてはならず、朝食を用意するには材料を買っておかなければならないということである。材料を買っておくためには、前日にスーパーなりコンビニなりに行く必要がある。

まったくもって人生とは厄介なものである。いとも簡単に朝食を食べろと言われたが、こんなにも大層なことだったとは。

とりあえず目の前にサッポロ一番の焼きそばがあり、それを作って食べたが、これがダイエットにふさわしい朝食か否か、一抹の不安がよぎった。

なつばて

出勤すると夕方まで同じビルから一歩も出ない生活を送っている。適温な環境下で一日を無為に過ごしており、夏バテとは無縁の生活であると思っていた。

しかし気付くと気力と食欲をなくしていた。気力は失いがちな性格をしているものの、食欲は暴飲暴食の翌日くらいしか失われない。もしかして夏バテだろうか。

暑い日には辛いものを食べようと思い、街を彷徨っていると、近所に中華料理屋がオープンしていた。ピリリと山椒が効いている麻婆豆腐。これとビールさえあれば今年の夏は何とかなるのではないか。

そんなこんなで週二度の麻婆豆腐とビールで誤魔化していたが、ついに夏風邪をひいた。回復途上の弱っているときに限って友人が一時帰国しており、昼から寿司屋で冷酒を飲んだり、居酒屋の座敷で寝転がってコークハイを飲んだりしていた。

日本酒とコークハイの翌日、所用で証明写真を撮ったところ、顔が犯罪者のマグシッョトのようなことになっていた。もともと美少年というタイプではないが、二重化した顎が三重化しており、小顔とは言えない顔が更に巨大化していた。しかも瞼が腫れ上がっている。人相がひどく悪い。

体重には大した変化はなく、殴り合いをした記憶もなく、つまりは浮腫である。よくよく考えると日に2回くらいしか小用に行っていないのであった。

陽のあるうちの日本酒をやめ、居酒屋のコークハイもやめ、そして麻婆豆腐への依存を減らし、漢方薬を取り入れて生活改善を図ることにした。幸い中華料理屋には芸術的なチャーシュー麺があり、麻婆豆腐がなくても生きるよすがは失われていない。

かーるつぁいす

人間の性格とカメラのレンズは明るい方がいいが、人間の器とデジカメのセンサーは大きい方がいい。いまさら明るい性格と大きな器は難しいので、ここ数年はカメラの性能で勝負することにしている。

カメラと僕の関わりは長くて深い。高校時代には親をダマして中古のPentax 6×7を入手していたのだ。センサーと同じく、フィルムも大きいほうがいい。17歳で既に自分の器の大きさには見切りをつけていたのだ。進む道さえ正しければ、いまごろ偉人になっていたと思う。

昨年、いわゆるフルサイズの一眼デジカメを購入した。小型なミラーレスなのに、センサーのサイズが約2.4cm x 約3.6cmある。それまで使っていた一眼デジカメに比べると約2.3倍の大きさのセンサーである。ある一面で小さいことは素晴らしく、別の一面では大きいことは素晴らしい。両立していれば最高である (少なくとも論理的には)。

買った当初はキットで付いてきた標準ズームレンズを使っていた。撮った画像はAdobeのLightroomというソフトで現像しているのだけど、しかし、イマイチ解像感がない。センサーの性能にレンズが負けているのではないか。そう思ってカタログに眼を通すと、標準のズームレンズにも、カールツァイス・ブランドの高級バージョンがあった。明るい性格と大きな器を諦めた以上、人生はデジカメの性能で勝負すべきである。

気付くと、そのカールツァイスを買っていた。インターネットとクレジットカードの魔力である。高級レンズさえ使えば、かなり満足のいくレベルに達する。そう思った。

その後、ふとしたきっかけでDxOという現像ソフトを試してみた。Lightroomと比べると、段違いの現像能力である。Lightroomではツブれていたディテールが、DxOだと表現できている。ということは、キットのズームレンズがダメだったのではなくて、現像するソフトウェアがダメだったようである。こうなるとカールツァイスは性能的にも使用頻度的にも宝の持ち腐れ状態である。器の小ささをレンズで誤魔化そうとしたものの、実質的には意味がなかった。付け焼き刃は剥げやすい、ということであるが、高級レンズの満足感は何だったのだろうか。それこそが僕自身の器の小ささではないか。

しばらく考えたのち、高級レンズは下取りに出すことにした。

カメラに限らず、モノさえ手に入れれば何となく満足できるものである。これこそネットショッピングとクレジットカードの裏に潜む、金の魔力である。しかし人間の器の大きさは金の力では誤魔化しようがない。過酷な現実を高い授業料で学んだ。