としのくれ

毎年一回、新年に旅行とは関係ないブログを書いている。旅行に頼らない文章力を得ようと思っているのだが、センスというものは年末の宝くじでは当たらないので、実現には至っていない。結局、来年も旅行系ブロガーからの脱却は困難だろう。

さて、今年の年始、シェイクスピアの日本語訳からの引用で「明けない夜はない」と書いた。昨年12月上旬に風邪をひいて以来、1ヶ月程どうにも調子が良くなかったのだ。当時は風邪と診断されたのだが、友人の医療関係者数名からは、インフルエンザワクチンのせいで、判定キットが反応しなかっただけではないかとの指摘もあった。

その後の一年は、極めてロクでもなさすぎた。過度な気温変化、花粉症、低気圧など様々な要因により、結局のところ、夜明けらしきものは見付からないまま、今年が暮れようとしている。

数字が全てを物語っていると思うのだが、今年の有給消化日数は18日と過去最高を記録した。勤務年数だけは長いので、昨年分の繰り越し20日と合わせて40日の有給日数だが、日本人サラリーマンとしては、取得日数が相当多い部類に属するだろう。

特に酷かったのが前半で、6月末時点で休みは累計12日に達していた。例の風邪だかインフルエンザだかの休みを含めた昨年全体と同日数である。たしかに今年前半も旅行に行っていたが、毎月のように行っていたわけではない。

そこから生活パターンを立て直すべく取り組んだ。夏の間は比較的落ち着いていたが、その後、冬になるにつれて再び悪化していた。結果的には先述の数字である。

諸悪の根源は不眠だと思われる。不眠が自律神経の働きを弱め、さらに不眠になる悪循環である。去年の夏までは漢方薬で入眠できていたのだが、いつの間にか漢方薬は全く効かなくなり、日常的に午前3時くらいに寝るようになった。そこそこ職住接近しているが、それでも7時半には起きる必要がある。

睡眠の質は落ちるものの、飲酒で漢方薬を代用する事も考えた。かなりの量を飲まないと寝付くには至らず、平日連続3晩でウイスキー1本を空けた時、肝機能障害と痛風になるリスクを真剣に考慮するに至った。酒より薬の方がマシだとの結論に至り、数年ぶりに睡眠導入剤の服用を再開した。

最初は薬が効きすぎて起床に影響を及ぼし、年始の出勤日には起きたら昼前だった。三流サラリーマンな僕でも真っ青な事態である。

服薬量の調整を行って何とかなったが、徐々に不眠が悪化して効果が出にくくなった。ある程度の眠気がないと睡眠導入薬は効かず、結果的に入眠が午前2時を過ぎるようになった。ここから更に遅くなり、午前3時を越えて、夏至の頃には日の出を見てから寝ていた。さすがに酷すぎる。

その後、薬を変えた効果もあって、夏から秋の間は午前3時頃の入眠で定着していた。しかし寒い時期になって再び悪化傾向である。どうやら気温変化に弱いらしい。実際のところ年始よりも確実に悪化している。この生活が1年以上も続くのは長い。

ここまでくると「暮れない昼はない」と思いたくもなるが、そうなる前に区切りを付けたい。

お年玉を貰えなくなって以降、年賀状を書かなかったり、初詣に行かなかったりと、年の区切りには興味がなかった。それでも年は終わる。今年も30日は焼鳥屋と銀座のバーの最終営業日に酔い潰れ、31日は中華料理店と横浜のバーで大晦日を静かに過ごす。ここ数年、恒例のパターンである。同じ事を繰り返すうちに、時は過ぎ去るものだろう。

今更お年玉を貰えるとは思えないが、今年の区切りをつけるべく、まずは酒を飲みに行こう。そして旅行に備えようと思う。

所詮、来年も旅行系ブロガーが関の山だろうから。

旅のしおり:クロアチア、モンテネグロ、時々ボスニア・ヘルツェゴヴィナ

記載の時刻等は訪問時のダイヤです。

0日目

羽田 2140 (ANA203) – フランクフルト 0520+

1日目

フランクフルト 1025 (クロアチア航空 OU419) – ドブロブニク 1210

宿泊:Ragusa City Walls Apartments

1日目Tips
・二度目のドブロブニクだが、ホテル代が暴騰しており、旧市街の近くにある民泊を利用することにした。空港からのバス停にも近く、かなり便利な場所である。民泊専門の管理会社があるようで、かなり良くメンテされていた。
・この日の夕食レストランは敢えて名前を伏せるが、ミシュラン掲載店だった。どうやら僕と現代風クロアチア料理は相性が悪いらしい。見た目は派手で料金も高いが、イマイチ繊細さに欠ける気がするのだ。

2日目

・クラヴィカの滝、モスタル、ポチテリ1日ツアー

昼食: Restoran Kaldrma

夕食:Konoba Dubrava

2日目Tips
・この日の夕食は伝統料理の店。鉄鍋の蒸し焼きのような料理なのだが、シンプルながら絶妙な味付けだった。前日のレストランとは違い、地元の料理、ワインとリキュールを堪能できた。難を言えば旧市街からタクシー利用になる立地だが、ドブロブニクではUberが使えるので問題ない。

3日目

・晴天のドブロブニク

昼食:Sandvich Bar

ドブロブニク 1730 (バス) – コトル 1950 (実際は2100頃に到着)

夕食:Atrium Restaurant

宿泊:Apartments Casa del Sol Jovana

3日目Tips
・天気予報が完全に外れて朝から快晴。結局、旧市街の城壁には3回も行った。アホだ。
・昼食はヒルトンホテル前にあるサンドイッチ屋さん。ここのバーガーが絶品で、前回のドブロブニク訪問時には毎日のように行っていた。観光地の小食堂なので心配していたが、COVID-19を乗り越えられたようで何よりだった。
・バスでモンテネグロのコトルに向かった。チケットはネット予約が無難、荷物預けは別料金。
・コトル旧市街は小さい街で、ホテルは少ないが、民泊が多い。最初に予約を入れた所は予約直後に送金での事前決済を求められたので、キャンセルすることにした。事前の支払い自体は問題ないが、さすがに直接送金はリスクが高すぎる気がしたのだ。ホテル予約サイト経由でカード決済できるところを探して再予約。

4日目

・コトル散策

夕食:Konoba Scala Santa

4日目Tips
・コトルは小さい街だが、クルーズ船も来るので異様に混む。できれば宿泊して早朝と夕方を活用したほうが良い。
・コトルで民泊に泊まると、到着後48時間以内にパスポートを持って宿泊税を払いに行く必要がある。

5日目

・コトル散策

夕食:La Catedral Pasta Bar

5日目Tips
山道が急すぎた

6日目

コトル 0300 (送迎車) – ポドゴリツァ空港 0430

ポドゴリツァ 0700 (オーストリア航空 OS730) – ウィーン 0820
ウィーン 1125 (ANA206) – 羽田 0655+

6日目Tips
・モンテネグロの首都であるポドゴリツァはヨーロッパで最も見所のない首都らしい。そんな都市で飛行機に乗るためにホテル代を払った挙句、旅行期間が1日余分になるのは考えものだった。コトルからタクシーを頼むと約100ユーロ。午前2時半起きが厳しいが、経済的には合理的な選択肢である。と思う。たまたま民泊を予約したサイトでキャンペーンをやっていたので、そこから送迎を手配した。
・僕がモンテネグロ2回目だと言ったせいなのか、空港送迎車のお兄ちゃんが急にフレンドリーになり、日本円の紙幣が欲しいとのこと。10ユーロで、北里富三郎の千円札新札と、夏目漱石の千円札旧札を交換。全額チップじゃないところがセコイ。
・ウィーン空港ANAゲート付近のビールパブで8時から飲み始め、10時半には酔っ払い。オーストリアのビールについて解説してくれたりと、なかなか良いお兄ちゃんだった。

もんてねぐろのおもいで

クロアチアからはバスで国境を越え、モンテネグロに移動した。クロアチア最終日が予報に反して快晴であり、かなり期待してモンテネグロに向かったのだが、今回の夏休みは甘くなかった。ドブロブニクでバスに乗車したあたりから雲行きが怪しくなり、国境地帯に着いた頃には小雨になっていた。

前日に通過したクロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナの国境は検問所が1か所に集約されており、かつ往復ツアー客しかいなかったせいか、車両から降りずに通過できた。一方でクロアチアとモンテネグロの国境は両国の検問所が離れており、しかも路線バスだったせいか、2回ともバスから降りてパスポート審査を受ける必要があった。さらにモンテネグロ側の検問所の設備があまり良くなく、雨を避けるスペースが少ない。 週末だったせいか、国境通過に合計1時間半以上かかり、かつ濡れてしまった。

それは暗い嵐の夜だった。東欧チックな重い雰囲気が漂うバスに、延々と揺られて過ごす。窓の外は漆黒のコトル湾であり、徐々に暗い気持ちになっていった。北海道の雪道では中島みゆきを聴いていたが、モンテネグロの夜道には鬼束ちひろが似合った。

結局、バスは1時間ほど遅れてモンテネグロのコトルに到着した。今回の旅では旧市街にある民泊を利用した。これがパリなら無理矢理にでもアパルトマンと呼ぶような建物だが、モンテネグロだと裏路地にある古い家である。更に暗い気持ちになって食事に出かけた。

翌朝、起きると妙に暗い。路地に面した民家なので、基本的にはガラス窓に付いている木戸を閉めているらしい。窓を開けてみると、やはり小雨が降っていた。この日は日曜だったので午前中の教会見学はできないだろうと予想し、木戸を閉めて、遅くまで二度寝していた。

午後になって外へ出ると、街は大混雑していた。雨は止んでいたが、曇天である。まずは教会見学すべく街へ出た。

僕と神様の関わりは極めて乏しく、北海道の神様とか、SLの神様が関の山である。八百万の神々というよりも、都合の良さそうな神様という程度でしかない。それでも旅行先では宗教施設は多く訪れている。

コトル訪問が夏休み旅行の主目的だったが、前回、この街で正教会に魅せられたのだ。この街に聖ルカ教会という、モンテネグロ正教会の古くて小さな聖堂がある。同じ正教会でも、隣にある聖ニコライ教会の方が大きくて豪勢なのだが、僕は質素な聖堂に見入ってしまった。この数年後にブルガリアで正教会の修道院を訪問するきっかけになったのだから、かなりのインパクトだったのだろう。

コトル旧市街は路地の入り組んだ小さい街で、地図を見るよりも、ぶらぶら歩いている方が分かりやすい。人の流れに従って歩いているうちに、街の地理を思い出すことが出来た。しかし日中は人が多く、商店を冷やかすくらいが関の山だった。

午後も遅い時間になって人が減ってから、本格的に教会の見学を開始した。どこの教会でも隅の方に座って眺めていると、時折、観光客のいない静寂が訪れた。じっくり5か所くらい教会を訪問することができた。最後に聖ニコライ教会の日曜夕礼拝の時間と重なり、これまた片隅に立って見学していた。

翌日が実質的な夏休み最終日だったのだが、やっと晴れた。コトル城壁の外に山があり、そこから旧市街を見下ろすことが出来る。今回の旅では天気を信じられなかったので、早朝に出発することにした。途中のビュースポットまで登ったところ、まだ街が山陰になっていた。ベンチに座って時間をつぶし、4組くらい観光客の記念撮影に協力したところで、ついに旧市街に光が当たった。コトルの旧市街自体はドブロブニクより小さいが、峻険な山に囲まれていて、壮大な景色を眺めることができた。

最終的に山頂まで登ったところ、iPhoneによると80階くらいの登坂量らしい。帰りも同じ道を下るのだが、むしろ足や膝への負担は下りの方が多いように感じた。

宿に戻った時には昼過ぎだった。近くに流行っているピザ屋があり、スライス数枚とビールを買って昼食代わりにした。さすがに疲労困憊で、そのままウトウト昼寝。

夕方、最後に街を散歩しようと思って出かけたが、先程の登山が効いたのか、膝が痛い。歩くのが億劫になり、港のベンチに座って、夕暮れのコトルを眺めていた。周囲に広がる山々、そこからの澄んだ水が静かな水面のコトル湾に注ぐ、なんとも印象的な街である。来た時には漆黒だったコトル湾が、いまは青い水を湛えている。

ドブロブニクからの日帰りツアーなど、一般的には数時間の滞在しかしないような街だが、丸2日を費やし、じっくり楽しむことが出来た。

今年の夏休みは、爽やかで眩しい太陽があるアドリア海を楽しめるだろうと思っていた。結局、度々の悪天候と予期せぬ出来事に見舞われ、今年の夏休みは決して楽なものではなかった。それでも、ドブロブニクとコトルの両方で2日間晴れた。これで満足し、終わり良ければ全て良しと結論づけるべきだろう。

旅に出なければ、このように前向きな結論に達することはないのだが。