8月中旬の夕方、ドクターしんコロから連絡が来た。月末に帰国するので、日曜日に会わないかとのことだった。わずか10日くらい先の週末に暇を持て余しているのは、僕本人に聞かなくても知っていたらしい。さすが長い付き合いである。
それなら夕方に寿司屋の予約を入れれば良いと安直に思ったのだが、どうやら宗旨替えしたらしく、箱根あたりに日帰りでトレッキングか温泉に行かないかとのこと。暇を持て余している僕としては拒否する正当な理由が見当たらないが、箱根だけは全力で阻止した。
たまたま谷川岳に関する本を読んでいたせいもあり、谷川岳ロープウェイに乗って天神峠でトレッキング、さらに電動バイクを借りて一ノ倉沢を見に行く意欲的なスケジュールを考案した。結果、日帰りでは時間的にハードとなり、水上あたりで一泊することになった。
埼玉県の秩父は荒川の上流域なので食わず嫌いだったが、同じ関東でも、谷川岳は群馬県かつ利根川である。利根川源流まで行けば旅に出たと思える非日常感だが、問題は水上だろう。僕の中では鬼怒川と同列の、食わず嫌いの温泉地である。いわゆる大箱の温泉宿が苦手で、バブル期の遺物を見に行く趣味もない。
ちょっと調べてみたところ、水上の奥に湯檜曽という温泉があり、全盛期でも鄙びた温泉街だったとのこと。ちょうど上越新幹線の上毛高原駅から谷川岳ロープウェイに向かうバス路線上にあり、悪くない選択肢と思われた。
その夜、湯檜曽の温泉宿を探し、翌朝には予約を完了していた。一晩で作ったプランにしては、我ながら良く出来ていると思ったのだが、そこからが難関だった。
例によって例のごとく、問題は天気である。たしかに山の天気は変わりやすいし、夏の北関東は雷雨が多いが、今年は特にひどかったらしい。予約を入れた頃までは夏の盛りで、悪いなりにも安定していたが、出発日が近付くにつれて、季節が秋に変わりつつあるせいか、予報が定まらない。しかも太平洋上に大型台風が発生して湿った空気を生んでおり、さらに不安定な気象状態だそうである。
わざわざトレッキングシューズを持って日本へ帰国しているのに、雨では申し訳ない。キャンセル料を払ってでも、どこか晴天の場所を探そうと思い、かなり必死で天気予報を眺め続けていた。関東以外も探してみたが、前々日時点の日本全国予報でも、確実に晴れそうなのは東京都と神奈川県だけだった。こうなると「箱根」の二文字が頭をよぎるが、あえて火中の栗は拾わないことにした。
とりあえず初日の予定をカットして往路の新幹線指定券だけ変更し、太陽光が降り注ぐ猛暑の東京駅で集合、谷川岳へと旅立った。途中の大宮では既に曇天、熊谷あたりで雷雨になった。
こうなると悪い予感しかない。案の定と言うべきか、高崎を過ぎたトンネル内で車内照明が消え、新幹線が緊急停止してしまった。後続の列車が停電したとのことで、簡易的な車両検査をしてから運転再開。
結局、5分ほど遅れて上毛高原駅に到着した。ここから湯檜曽温泉までの路線バスが、定刻で7分接続である。たまたま階段前の車両に乗っていたので、なんとか出発20秒前にバスへ駆け込めた。
この頃から良い予感が芽生え始めた。さすが「コップに水が半分もある」と思えるドクターしんコロの潜在力なのだろう。
それでもバス乗車中は凄まじいゲリラ豪雨だったのだが、宿に着いてしばらくすると小雨になった。頃合いを見計らって、散歩すべく外へ出かけた。たしかに昔は鄙びた温泉街だったのだろうが、今や温泉宿が数軒ある寂れた山奥の集落である。
この小さな集落が雨に濡れ、極めて趣のある情景となっていた。しばらく歩くと有名アニメ作品に出てきそうなバス停があり、同じ制作会社の作品に出てきそうな鬱蒼とした森の中には神社もあった。あとは清流の音が響くだけである。
この日は「なかや」という宿に泊まったのだが、露天風呂は40分間の貸し切り制になっていた。オッサン2人で貸し切り風呂もどうかと思ったが、それはさておき入浴直前には雨も上がり、しばらくすると夕焼けが始まった。
僕には夕食開始時間の直前に撮影へ行く悪癖があり、5分で戻ると言って、結局15分くらい撮影タイム。深い谷に赤く染まった雲が垂れ込め、なんとも幻想的な景色が広がっていた。
部屋へ戻った時には、氷が入った食前酒は既に薄くなってしまっていたが、優秀な友人はビールを注文しておいてくれた。この宿の料理が素晴らしい。温泉旅館にありがちな創作系和食コースの流れになっているものの、特に洋食系料理に対する手のかけ方が半端ないように思った。料理長のスープとソースに対する深い愛情の賜物だろう。最初から最後までカジュアル系フレンチでも良いのではないかと思ってしまう。
二日目の天気予報も極めて微妙だった。朝から雨なら早々に東京へ帰ろうと思っていたのだが、降雨は午後以降らしい。予定を午前中だけに絞り、天神峠か一ノ倉沢を状況次第で決めることにして、帰りの新幹線の予定を変更した。
バスに乗ってロープウェイ乗り場まで行くと、予報通りの曇天である。ただしチケット売場おねいさんによると、天神峠まで登ると、谷川岳は見えないものの、群馬県側には青空が広がっているらしい。
結局、ロープウェイに乗ることにした。天神峠から谷川岳側を見ると渓谷には深い雲がかかっており、あのまま一ノ倉沢まで行っても何も見えなかっただろう。夏の終わりとはいえ、天神峠には所々で花が咲いており、楽しいトレッキングができた。
オッサン2人で地味な温泉地まで往復するだけの旅を覚悟していたが、結果的には極めて楽しめた旅になった。やはり「コップに水が半分もある」と思えるマインドが重要なのだろう。