こうやさんのおもいで

年末年始の休み中、深夜にボケーッとNHKを見ていると、高野山の番組をやっていた。正月気分だったせいか、観光ガイド的な番組だったせいか、僕にしては珍しく、お寺に行ってみたくなった。

基本的に僕は日本の神社仏閣には苦手意識が強い。宗教的な理由というよりも、ちょっとした記憶の断片の積み重ねが原因である。

子供の頃から体が硬すぎるのだが、オッサンになってからは腰痛もあり、畳の部屋は苦痛でしかない。それに土産物屋が並ぶ門前の風景というのも苦手だ。お寺そのものが通販番組みたいで微妙だったこともある。

しょうもない理由の羅列ではあるが、オッサン人生45年の蓄積である。ここまで来ると、陽の当たらない森の奥で落ち葉が積み重なって腐葉土になってしまったような、じっとりした生々しさで意識の奥底に沈殿している。

冬の間は東北方面の温泉に気を取られていた。それでも南海特急の動画を見たりと、徐々に高野山に目が向いてきた。これを機会に生々しい世俗社会から逃れ、真言密教の世界に触れて真理を悟る一端としたい。

ところで僕の関西経験というのは、京都へ飲みに行くか、神戸へ出張に行くのが主である。大阪で泊まった記憶というと、帝国ホテルのドアマン・スヌーピー部屋に泊まった時と、中国・杭州からの帰りに関西空港便しか取れなかった時くらいである。

関東から高野山へ向かうには、大阪で南海特急に乗り換えるのが便利らしい。

東海道新幹線で行けるのは新大阪まで。一方の南海は難波が始発駅なのは知っていたが、難波と天王寺は同じ場所だと思っていた。しかし、どうやら違うらしい。

この程度で新幹線から南海電車に乗り継げるのだろうか。大阪は広い。と思う。

ちょっと調べたところ、新大阪から市営地下鉄に乗れば、乗り換えなしで難波に行けることが分かった。

僕でも分かる大阪グルメと言えば、蓬莱の豚まんだ。新大阪駅にも難波駅にも売店があった。高野山では宿坊に泊まるのだが、勿論そこは精進料理である。こっそり豚まんを持ち込んだら、怒られるだろうか。修行の妨げになっては良くない。やっぱり諦めよう。

帰りの新幹線で「冷えたビール片手に温かい豚まん」という生々しい構図を思い描いて、高野山に向かった。

高野山で一晩を過ごして心が清らかになった僕は、昼食と休憩を兼ねて高野の街の喫茶店に入った。あとは生麩まんじゅうを買って帰るだけだったが、帰りの特急電車に接続するバスまで時間があったのだ。

喫茶店では隣席の坊さん連中の会話が生々しい。結局、寺院の運営は経営であり、金がかかるということなのだろう。そして僧侶業界に関わる諸々の人間関係。

心が清らかになったと思ったのは、誤解だったのだろうか。疑いが芽生えたまま下界に戻り、南海特急に乗って大阪に戻った。

新大阪駅でテイクアウトの豚まんを購入し、新幹線改札を通った。ついにビール片手に肉まんである。昨今の状況下、新幹線は基本的にガラガラなのだが、念には念を入れて、すいている確率が高いと言われる新大阪始発列車を選んで予約しておいた。

駅構内で売店や弁当屋を何軒か探したのだが、全ての店舗で「諸般の事情により」酒類は売っていないとのこと。COVID-19による緊急事態宣言である。各店舗にかかったであろう生々しい圧力は想像できる。冷めていく豚まんを目の前に、新幹線車内で修行のような時を過ごしつつ東京に戻った。

心が清らかになったと思ったのは一瞬だった。そもそも心が清らかというのは表層の一部でしかなく、むしろ有象無象の生々しさこそ、人間や社会そのものだろう。その生々しさの奥に隠された意味を見付けることが、真言に通じる道ではないか。

高野山に行ったものの、真理の智慧はおろか、世俗社会すら分かっていないままだった。