ボストン滞在3日目にして最終日は、ボストン郊外の観光に出かけることにした。往復の移動こみで4日間のアメリカ往復である。本来であれば早朝から時間を有効に使い、街の探索に出るべきなのだろうが、あまりにもボストンは寒かった。ダラダラと昼前まで猫と戯れていた。
まずはケンブリッジのハーバード大学に行った。サンクスギビング翌々日だが、有名大学だけあって、かなりの人出である。もっとも教職員も学生もサンクスギビング休暇で基本的に休みだろうから、キャンパスにいた人間の9割以上が観光客なのだろう。
訳知り顔でキャンパスを歩いてみたが、実際のところ、どこに何があるのか訳が分からない。次善の策として、入学を検討している風な顔をしてキャンパスを歩いてみたが、どう考えても大学入学前の若者には見えない。年齢的に無理があるせいである。
多数の優秀な人材が学んだキャンパスは趣があったが、ハーバード大学と僕との間の心理的な障害を除去できず、すぐに飽きてしまった。
大学のキャンパスを出て、サンクスギビングで暇を持て余したハーバード教員のような顔をして、ケンブリッジの街を歩いてみた。年齢的には悪くないし、暇を持て余しているような態度だったが、どうみてもハーバード大学の教員には見えない。理知的な顔立ちではないせいである。
結局、ハーバード大学を含め、ケンブリッジの街は楽しめなかった。若くもなく、理知的な顔立ちでもないせいだろう。一昔前を振り返って考えると、ロサン学生時代も大して楽しめなかった。その頃も理知的な顔立ちではなかったかもしれないが、少なくとも年齢的には若かった筈である。つまるところ、学校絡みの思い出とは、その程度なのかもしれない。
早々にケンブリッジの街を立ち去り、蒸留所の見学に向かうことにした。僕としては、こちらのほうがメインである。ボストンには数か所の蒸留所があるのだが、ウィスキー系が充実してそうなBoston Harbor Distilleryに行ってみた。
世界中どこへ行っても蒸留所は蒸留所であり、やっていることは基本的に同じなのに、興味は尽きない。一方、世界中どこへ行っても大学は大学であり、やっていることは基本的には同じなのだろうが、大して興味を持てない。
ハーバード大学に行って分かったことは、蒸留所と大学の大きな違いである。
それは表面上の、たとえばコアになる設備が蒸留器か図書館かというような違いだけではない (たしかに蒸留器の方が図書館よりも興味深いのは認めざるを得ないが)。
本質的な差異は、蒸留所の基本業務が酒造であり、大学の基本業務が学問であることに由来している。
そして、ハーバード大学で、その本質的な違い、つまり大学の基本業務という点において、オッサン人生にプラスの側面を見出すことができた。
確かに「知」というものは大切であり、人生における教養と見識の重要性は疑うべくもない。しかし、大学の基本業務には試験というものが付随しており、それは逃げることのできない大学教育の負の側面である。
いまや大学というシステムに縛られなくなった僕は、試験という制約なく、教養と見識を深めることができる。
今回のハーバード大学訪問を経て、僕もハーバードで学んだと言えるのではないだろうか。
(前回のボストン記事 こちら)