しんねん

写真: 美しい夜明け (イメージ)

虚礼廃止とペーパーレスな人生をつきつめたところ、昨年、僕宛に届いた年賀状は7枚だった。バーと旅館を除くと、4枚である。つまるところ人生とはギブアントテイクであり、年賀状を返信しない人生によって、僕の真の価値は税込み208円と推定された。

正直ちょっと寂しい。

今更、僕自身の真の価値を高めるのは困難である。見た目の価値を上げるべく、アナログな習慣を再開し、人生をアベノミクスしてみようと思い至った。昨年の抱負である。

気付くと2016年になっていた。時が過ぎるのは早い。そして年賀状は書いていない。

昨年、年賀状に全く思いを致さなかったかと言われれば、そうではない。郵便箱には年賀状のチラシが入っていたし、どこかのタイミングで年賀ハガキを購入し、写真を選び、住所を印刷することは可能であった筈である。しかしアナログも虚礼も世間の習慣も人生のアベノミクスもないまま一年が終わった。

根本にあるのが、何かをスタートすることの難しさである。

今に始まったわけではないが、極めて社会性のない生活をしており、いまや年賀状を出すような相手の心当たりがない。全くないわけではないが、住所を知っているというだけの理由で、急に年賀状を送りつけるのも無粋である。なにせ送付先全員、10年以上のブランクがある。知っている住所が正しいかすら定かではないし、年賀状を出すにも言い訳が必要となってしまった。これでは、年賀状というより、年賀手紙になってしまう。

それに、年賀状の作り方も分からない。猿の写真はないが、初日の出を連想させるような写真を用意することはできる。実際には日暮れかもしれないが、おめでたいような雰囲気を醸し出している。余白に「謹賀新年」と書く。それ以上、何をすればいいのか。センスのある年賀状の作り方がわからないし、宛名印刷の方法も不明である。プリンターはあるが、センスがない。

今年、1月3日の夜までに届いた年賀状は3枚。そのうち2枚はバーからである。いまや僕の真の価値は税込み52円になってしまった。

深刻なデフレ人生である。