僕は食べず嫌いが多い。
たとえば牡蠣。子供の頃、牡蠣鍋を無理に食べさせられて以来、ほとんど食べていない。その時の牡蠣はスーパーで売っている剥き身のパックだったのだが、いまだに牡蠣の剥き身パックを鮮魚コーナーで見るものイヤだ。いまや僕と牡蠣との関わりは、数年に1度くらい生牡蠣を食べる程度になっている。最近では昨年11月にボストンでシーフードのレストランに行った時だ。Rが付く月のニューイングランドである。メニューを見るまでもなく、時期も場所も生牡蠣を指し示していたのだが、それでも積極的にオーダーするわけではなかった。
海老も嫌いである。殻に由来すると思われる、独特の臭みと味が嫌いなのだ。野菜料理で有名だった山奥のレストランで、なぜか伊勢海老の焼き物が出てきた時は、全く手をつけずに残した。安直なメニューに対する抗議と見せかけて、ただ単に嫌いだっただけである。20年ほど前には、サンフランシスコ湾沿いのレストランで、シュリンプ・カクテルと白ワインという土曜のランチが待ち遠しかった気がするのだが。いつの間にか、かっぱえびせんのようなスナック菓子すら見たくないオッサンになってしまった。
僕にとって、シンガポールは牡蠣や海老と似たようなポジションである。乗継ぎの時間つぶしやら仕事やらで、結果的に1年に1回はシンガポール市内に行っているが、ほとんど好きになれていない。
初めてシンガポールに行ったのは、10年くらい前になると思う。最初の記憶として残っているのは、平日の午後、クラークキーをマーライオンに向かって歩いていた所である。
何月だったのか覚えていないのだが、いずれにしても常夏の島の午後は暑いし、平日の昼間だから観光地に人はいない。
コンクリートで作り込まれたシンガポール川沿いの街なみといい、不自然なまでの綺麗さといい、人工的すぎるように思えた。クラークキーの人出のなさも相まって、そのころ不振だったUSJのような、なんとなく寂しさのあるテーマパークのように思えた。
その日以降、僕の中でのシンガポールは、無駄にテーマパーク化した香港という位置付けになった。食わず嫌いの始まりである。
ことわざに「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というのがあるが、シンガポールが食わず嫌いになると、マーライオンもナイトサファリもガーデンズ・バイ・ザ・ベイも、すべてがウソぽく見える。中華街の飲茶屋で深夜までビールを片手に点心を食べられるのも、広東の飲茶屋を思うとウソぽい。究極はマリーナベイ サンズの屋上の船である。あんなコンクリート製の偽物の船よりも、スターフェリーのほうがいい。
結果として、シンガポールで真に素晴らしいと思っているのは、ラッフルズ ホテルだけである。もっともラッフルズを定宿にする財力はなく、Long Barは観光地すぎて苦手であり、もっぱらロビーにある小さなバーを愛用している。そのラッフルズもリニューアル工事中で、ここ数回はバーにも行けていない。
結局、食わず嫌いの原因になったクラークキーでハッピーアワー前から飲みはじめ、夕方からは中華街でビールを片手に飲茶を食べるのが定番コースになってしまった。コンクリートに覆われ、しかも海は見えないが、それでも潮風を浴びながら屋外で昼酒を飲むのは快楽である。それに、もはや飲茶とは言えないのかもしれないが、やっぱり点心とビールは相性がいい。しかも20時ちょっと前に中華街でタクシーを拾えば、22時頃発の羽田行きに間に合い、翌朝から会社に行けるので無駄がない。
今年は正月代休のベトナム旅行を直前でキャンセルし、シンガポールに行くことにした。ここのところ出張以外でシンガポールに泊まる機会はない。市場が好きな僕としては、今回は早起きして市場に行ってみようと思った。
シンガポールと言えば、公営住宅と出稼ぎメイドさんとホーカーセンターの国であり、あまり自宅で家庭料理というイメージはない。農産物を輸入に頼っているせいもあるのだろうが、実際にスーパーに行ってみると食材は高くてショボイ。
あまり期待せずに市場へ行ってみることにした。シンガポールには何箇所か市場があるのだが、リトル・インディアのTekka Wet Market、それとTiong Bahru Wet Marketの2箇所に行ってみた。
秩序と清潔をモットーとする国の市場だけあって、以前に訪れたことのあるアジアの市場と比べると、アジア的な混沌さはないが、それでも市場らしいパワフルさに満ちている。中華街に近いTiong Bahruよりも、インド街のTekkaのほうが押しが強い気がしたが、これってインド人的なニュアンスなのだろうか。
あたり前のことだが、ラッフルズホテルはシンガポールの一つの側面でしかない。シンガポールにも普通の生活はある。短期滞在で分かりやすい所だと、ホーカーセンターがシンガポーリアンな生活の一例なのだろう。
今回は市場に行き、もう一つ、シンガポールの普通の生活を垣間見ることができた。こうやってテーマパークではないシンガポールを見ることで、多少なりともシンガポールに対する食べず嫌いの解消に繋がっていくのではないだろうか。
ところで、牡蠣と海老も、もっと積極的に関われば好きになるのだろうか。考えただけでもウンザリだ。やめておこう。